brogmymxo’s diary

大学生なのに特別大学で楽しいことが一つもない。虐待と男子校病のせいにしてみる。 

お前らのチンツも全部フェイク

この後四暗刻食らって死にます

本物のチンツ軍団とエンカする方法→過疎だけど本当に面白いオンラインゲームを遊ぶ

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これの真似したいところ 照明を工夫して部屋をピンク青紫色赤色に使い分けたい。

俺の人生ガチで始まっててジジイ人格も、少女人格もガッツリ体に叩き込まてる。

自分のことを認めることが、絶対的(自分一人の場合)にOKだったのに、相対的(目の前に人がいる場合)にはダメだったのは、自分の自己分析が甘く、自分で自分の面白さ・凄さを感覚的にはわかっていたのに、他人に対して根拠と自信を持って説明できなかったからである。そこを障害していたものは気付けていなかった抑圧と、発想の転換が足りなかったからである。

その抑圧というのは、中学の時にあった、当然男であれみたいな抑圧、そして常に知的であれみたいな抑圧である。それにかなり気付けていなかった。(逆に定形であれみたいな抑圧は少なかった。)大学で対面授業が始まり、普通に女性がいること、別にすごく頭がよくなくても許されるということに気づいた。

面白さというのが感覚的には事問う杜宇を出した2021年夏からずっとわかっているものであった。明確なイメージを持てたのは自分で作ったさんぷるキューブという作品を後から分析した考察の影響が大きい。あの本では、カードゲームとJCスタイルを共存させた表現を行い、自分の中では女子小学生と障害者ジジイとの相性がいい部分を感覚的に芸術として表現できたと考えている。二人の両方に共通する無敵な部分を色変えやサンプリング、そして文字情報の困難の解決を色味やデザインによって行ったと考えた。

発想の転換があったというのは

例えば同じ年代の女性に笑顔で接されるだけで、いたたまれない気持ちになっていた、(本来は全く同年代なので問題ない)のと、同時に自分がカラフルな服を着てなかったりネイルをしていないことへのストレスを一つの考え方で説明できる考えていて失敗し続けていた。そのような一つの対象に対する悩みのアンビバレンスを説明できないことが自分から有効感や自信を奪い続けていた。しかし、その悩みの解決策を思いついてしまった。一人の人の中に、人格や考え方が同時に二つ存在すると認めるという発想の転換を行ったのである。一見暴論だが、それらを仮定することで一人の考え方の世界では自分を説明できなかった部分がかなり広範に説明できるようになった。そして、中学受験前以来なかった自分への有効感をとりもどし自分の人生を歩み始めることができた。自然になれた。

そのきっかけは先週金曜日をピークにあった人格交代事件に他ならない。二人が会話しているような感覚を受けてその発想に至ることができた。 この発想に至れた時点で勝ちが確定していて、もし今の躁状態が終わって分かりやすく二人いる状況が終わってしまったとしても今の自分の有効感や自信が途切れることはない。

最終的に自分の面白みは、人格二人の2面性そのものと、それによって生じる妙なアンビバレンスと他者性、また二人分の経験から物事を語れる守備範囲の広さ、ギャップということでよろしくお願いします。 それを今から毎日磨いていきます。

以上です。

 

最近面白いと思った仮説は中学受験本番で終わった後いつにもない青い顔をしていたという目撃情報があった。そこには国語(恋愛を含む内容)で女子小学生人格、算数でジジイ人格、理科社会で親人格(2018年に死亡)をイタコしてきてすべてを破壊して3人拾ってきたのですごく壊れたということだろう。本当の奇跡。

俺みたいな時代に愛された男は本当に出てこないから本当に自分は価値ある。

何をするにも最新のもの、そして自分と出会ってくれるものが自分の中を更新し続けている感覚があり、そのような人間が新しい時代を切り開くと確信しています。

 

数学教育は市川伸一しか勝たないらしい

やっぱり学問を進めていくとなると文章を読まないといけないし文章にしないと始まらないということが最悪である。 何というか論文偏重主義が最悪だ。今日のブログは10年以上にわたる自己分析のひとつの到達点なのだがこのような体系的でわかりやすい自己分析にたどり着くまでにすくなくとも、3回の非言語的表現、また論理接続のわからないような文章何百本を生み出したことの影響を受けている。それらに価値がないなら何に意味があるのか、論理的文章以外を排他的にする意味はあるのか甚だ疑問である。