反応できない人でもできるのが他覚的検査
やっぱり学習障害領域で出てくる能力の分け方がwell definedなの?って疑問に思ってしまう。
継次処理と同時処理とか数的事実とか怪しくね
今日の熊谷恵子の授業を聞いて思ったのは、俺の男性的アカデミックな興味は メディアコミュニケーション学と教育学(とくに臨床)にあって、それを同時に両方満たせるのが、学習障害者への視覚的アプローチである。と言うこと。
トム・ラピル/Tom LaPilleが気に入らないものの一つに、呼び名を付けるなら「存在ありき」のカードがある。《押し潰す蔦》[DKA]はその好例だ。「存在ありき」のカードとは、メカニズム的には完璧に理解できるものの、フレイバー的には全く意味をなさないカードのことである。たとえば、2つのうちのどちらか1つを破壊できるというモードを持つカードはメカニズム的には理解できる。どちらも緑のカラー・パイに属するものであればなおのことだ。「オーケー、この緑の魔道士である私が、この2種類のうちどちらかを破壊してやろう」というのだ。
ただし、もう一歩引いて全体を見て貰いたい。はたして、どんな呪文なら、飛行クリーチャーとアーティファクトのうちから選んで破壊できるというのだろうか 考えてみれば、共通点らしい共通点は何も存在しない。クリエイティブ・チームは我々が提示したものを何とかそれらしいものにしようとしてくれるが、このようなカードが優れたイメージを纏うことはない。
トムは「存在ありき」のカードを作るべきではないと強く信じている。彼の信念では、カードがクリエイティブ的にはっきりしたイメージを持っていなければ作るべきではないというのだ。私は、確かに「存在ありき」のカードが大量に作られるのは好ましくないが、しかしクリエイティブ面以外に非の打ち所のない実用的なカードもあっていいと思うのだ。メルヴィンを抑えてヴォーソスを幸せにさせることが多いのだから、たまにはヴォーソスを抑えてメルヴィンが幸せになってもいい。理想的には、メルヴィンもヴォーソスも満足できるカードを作るのがいいのはもちろんのことだ。
メディアコミュニケーションっていうのはマークローズウォーターのこと。
コンプレックスに真剣に向き合ったらガチで死にたくなった。